<   2010年 03月 ( 6 )   > この月の画像一覧

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   赤き鉄橋渡れば祖父母住む町と思ひしよ物心つきし頃より


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■懐かしさを手繰る歌

 四万十川を愛して下さって、嬉しゆうございます。

 母が中村の出身で、私も中村で生まれました。7才まで中村の祖父母の家で育ち、学校も中村高女で、四万十川が流れ、赤鉄橋のある土佐中村は、第二の故郷のようなものです。

 でも、四万十川の歌は、少ししかありません。

 現在、宿毛に住む私にとっては、松田川が近く、歌集も(四万十川ではなく、松田川の・・・)「河口」と題をつけました。松田川は、北見志保子さんの故郷の川です。(富岡)

  亡母のみ魂も傍へに聞ける思ひする四万十川原に琵琶の音ひびく

【写真】岡村龍昇氏

北見志保子氏の四万十川百人一首

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[プロフィール]

大正10年 中村市生まれ。主婦。
「海風」同人。
現住所:宿毛市

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[四万十川秀歌百選/大滝貞一]
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 重畳たる緑濃い山容に囲まれているからこそ四万十川の清流はとぎ澄まされて冴えわたっているのだ。朝の光の中でその清い流れはきらめきながら流れくだってゆく。(大滝)
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    水引けばすぐに渡れる沈下橋四万十川に三十もある


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■知恵の結晶

 佐田の沈下橋に案内してもらった。柵も手摺もない橋。四万十川の増水を理解し、川の流れに逆らわぬ人達の知恵の結晶らしい。

 その沈下橋が四万十川には、まだ数多く、現役で残っている。

【写真】岡村龍昇氏

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[プロフィール]

 兵庫県明石市在住。
歌人、84歳(平成19年)。

 特攻で戦死した学友が二人いる。五十余年間すまぬと思いつつ生きてきた。この度脳死が死と認められたので、臓器を提供して世に尽したいと思う。「戦友よ俺は脳死で世に尽す」

 ご趣旨に賛同して、四万十川百人一首に応募します。

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[代表歌鑑賞]      「昭和46年歌会始」 お題「家」

■兵庫県 後藤彦次

 いちじくの熟れては落つる故郷の家をしのびていちじくを買ふ

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[文化遺産]

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■沈下橋

◆向山(上岡)沈下橋(大正町)<昭和38年・長さ60M・幅4M>
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 西土佐村の口屋内沈下橋と同型で、流域ではアーチ型の橋はこの2つしかない。大正町道の駅「であいの里」から少し上流にある。武内前町長自慢の沈下橋だ。いつも「先生、この橋は良かろうがよ」と、本当に入れ込んでいる様子がうかがえたものだ。そして、こんなどうでも良い私を「先生」と呼んで、四万十川と共にかわいがってくれた。確かにいい沈下橋だ。

◆屋内大橋(西土佐村)<昭和29年・長さ241M・幅3M50>
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 アーチ形の橋桁を持つ一番古い沈下橋だ。上流の浦越沈下橋と同じ29年架橋で、大正町の上岡沈下橋と同じ形式の橋だ。右岸側の支流を遡ると、黒尊渓谷へ行くことができる。

◆勝間(鵜の江)橋(四万十市)<昭和34年・長さ171M40・幅4M40>
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 幅は他の沈下橋よりずいぶん広く、そのため橋脚の数も多い。安心してクルマでも走れる。橋脚の間に見えるのが勝間川だ。この上流に「勝間の渡し」があったが、児童数の減少で休校となり渡しも無くなった。

◆今成(佐田)沈下橋(四万十市)<長さ293M・幅4M20>
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 右岸側からの写真だが、袂には柳の木と菜の花、下流側には竹が茂る。四万十川流域で一番長い橋だ。最近ここから「さこや」の屋形船が出るようになった。橋の下手の河原までは、四万十屋の帆掛け船「舟母」が平元からのぼってくる。

             (山川海幸雨「四万十川だより」より)

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[文化遺産]

■四万十川の帆掛け船「舟母」

e0190619_215394.jpg 明治時代末期から昭和30年代まで四万十川上流、特に西土佐村では木炭を関西・関東に供給する基地となっていました。

 そのため西土佐村では愛媛県からの出稼ぎ者で溢れており、村内には診療所 が6つに、小学校も10数校ありました。四万十川上流域は大変な賑わいをみせ、木炭を上流から河口まで運び、そして帰りには日用雑貨品を積んで上流域へと帰りました。

 その時代、舟母の先頭の給料は公務員の6倍程。2人1組の航行が一般的で若い者同士、親子の組の時もありましたが、多くが夫婦でした。若者達は中村町で遊んで帰るのが楽しみで、市内は多くの歓楽街で賑わい、舟母の船頭は人気の的でした。1日に100隻以上の帆をかけた舟母が上り下りをし、四万十川の歴史の中で一番光って元気な時代……。

 時は過ぎ、人々の暮らしも変わり今は自然だけが残り、悠久の時を感じさせながら、私たちの心を和ませてくれます。(「HP・四万十川観光開発株式会社」より)
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【写真】現代の舟母(観光船)
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    黄昏るる四万十川の大橋を遍路の影の補陀落に向く


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■愚作を投稿

 私ごとき下手な歌詠みにまで、四万十川百人一首を募集中とのお便りを頂き、恐縮です。

 折角ですので、恥を忍んで愚作を投稿いたします。

【写真】岡村龍昇氏

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[文化遺産]

■四国遍路と四万十川

 いわゆる文学書に、四万十川の名前が出てくるのは、いつ頃か定かではないが、元禄12年(1699)、眞念法師が書き記した「四国偏禮道南増補大成」(今で言う、「四国遍路ガイドブック」)には、足摺岬(第38番札所金剛福寺)と、宿毛市平田の延光寺の分岐点、土佐清水市市野瀬にある番外霊場、眞念庵(眞念法師の庵)を紹介する個所に『川有、俗に四万十川と云、洪水の時ハ下のかや浦舟わたし有』と、四万十川の記述を、みることができる。

 この書には、旅の案内書(ガイドブック)故、川の所在は数多く記載されているが、川の名前そのものが記述されている個所はあまりない。

 ルビがないので、当時四万十川は、どのように呼ばれていたかは分からないが、全国各地から来るお遍路さん達にとって、『四万十川』という名前には、ある種の「こだわり」と「あこがれ」が、あったのかもしれない。

 詩心ある、お遍路さんによって、四万十川をうたい込んだ、和歌や俳句が数多く詠まれ作られたことであろうが、古文書には、その記録がほとんどない。(山藤花)

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【写真】西内燦夫氏(四万十川新聞社)
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 ほのぼのと旭日をうけて赤鉄橋(はし)ゆけば祇園神社の鉦が響けり


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■知事と張り合う?

 短歌を詠んだことがない橋本知事(橋本大二郎前高知県知事)が、どうしたことか『四万十川百人一首』に応募するという噂を聞いた。文化人(ぶんかびと)を自称する地方公務員としては、知事と張り合う気になった次第・・・。

 さて、作品は自然への畏敬、聖なるもの、無常なるものをない交ぜにしたものです。

 朝日をうけて橋を渡る・・・といっても、色街で遊んだ朝帰りの風景詠みではなく、生きているという実感・心象をそれとなく醸し出していると思います。

 一方、「平家物語」の「祇園精舎の鐘の音」を連想させるような世の無常さも、下の句であわせて歌に盛り込んでみました。

 私にとって、またの名を「渡川」と呼ばれる四万十川は、彼岸と此岸(あの世とこの世)を厳然と隔絶するボーダーラインであって、赤鉄橋はそれをつなぐ心の表象なのです。

 赤鉄橋の東詰にある須賀神社は、通称「お祇園さん」と呼ばれて、中村市民に親しまれています。

【写真】岡村龍昇氏

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e0190619_9433141.jpg[プロフィール]

 昭和24年8月土佐市生まれ。
 昭和47年高知県庁入り。農業土木の技術者。 
 現在、専門企画員。(前職:地域支援企画員。)
 平成22年3月定年退職/予定
 NPO土佐の森・救援隊副理事長
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[文化遺産]

■お祇園さん(須賀神社)
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【写真】小谷貞広(ポンガシ屋さん/おぎおんさん前37.5)
    小谷貞広写真集「ゆく河の流れ」1980より
(この小谷氏の写真ですが、神社でありながら鳥居前に坊さんが写っているというのも面白い光景で、四万十川百人一首第60首によくマッチしています・・・ん!?)

 中村は、一条公が作った町ということで、土佐の小京都と称されている。地名に、京都に因んだものが散見されます。京町、大橋通、左岡、右山、東山・・・。

 もともと中村は、応仁の乱を逃れた京都の公家である一条教房の一族が定住し、切り開いた町だといいます。言われて見たら、土佐弁は荒々しい方言なのに対し、中村付近の幡多弁はやさしい言葉遣いです。京訛だろうか。

 「お祇園さん」も、そのような京名残のいわれがあるのだろうか?

 このようなことから、中村は土佐の小京都といわれていますが、大文字焼のような、京風情のある山焼きもあります。
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歴史・文化で地域おこしを! (四万十川の「文化の香り」編)
土佐の小京都・中村

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[代表歌鑑賞]      
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  歳月は風雪豪雨刻みけり薄くれないの沈下橋(はし)の硬肌(はだ)にも

 硬い質感のコンクリートの肌を「薄紅」と形容するところに、特有の美的感覚が表出されている。「硬肌」は柔肌に対応する、この歌人独特の創造語であろうが、それとなくたおやかな色気を感じさせる。

 なお、紅は「暮れない」に通じ、夕方の景色を詠んだものであろう。数ある沈下橋を詠んだ歌の中でも、珍奇な表現の部類に属する。(評:幡多山正太郎)

【写真】岡村龍昇氏

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[ひとくちメモ]

■橋本前高知県知事と四万十川百人一首

◆四万十川百人一首のお誘い(ブログ:「だいちゃんぜよ」より)

a0050405_613544.jpg 14日朝、メールボックスを開けてみると、「四万十川百人一首」に応募しませんかとの、お誘いのメールが届いていました。

 メールの主は、四万十川周辺で、通算5年の勤務経験を持つ方で、来年定年を迎えるのを機会に、何かと人生を楽しませてくれた、四万十川への置きみやげにしようと、「四万十川百人一首」という企画を、去年スタートさせました。

 主にはネットを通じての募集で、すでに、全国の有名無名の歌人から、60首ほどの歌が寄せられていますが、来年3月の定年という締め切りまでに、100首が揃うかどうか微妙になってきました。

 そこで、知事にも詠み手の一人として、「四万十川百人一首」に、是非とも参加してほしいと言うのが、メールの趣旨でしたが、あいにく、その手の素養が全くありませんので、とりあえず、期待をしないで待っていて下さい、と答えるしかありませんでした。
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詠み人知らず(コメント・橋本大二郎)

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 第60首目になる片岡正法氏の【四万十川百人一首】は、橋本知事のメール(ブログ)に触発されての投稿。高知県職員としては、秋元厚志氏に続いて、二人目の投稿です。百人の中で2人(知事コメントの【四万十川百人一首】で、3人となりますが・・・)というのは、割合としては多いのか、少ないのか分かりませんが、高知県庁にも、文化の香りを理解する方が居られたのには安堵です。4人目、5人目を期待します。(四万十川百人一首編集人)
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   四万十の青き河水手に掬ふこの清流のとこしなへなれ


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■朝の鶯

 まだ春浅い日の明け方、毎年きまって鶯の声が聞える。わずか一週間足らずでその声も聞えなくなってしまうが、その春の訪問れの声を今年も喜んだ。

 年々自然が少なくなってゆく都市で、生きてゆく生物たちの生命を愛しく思う。朝の鶯の声のように無心な歌でありたいと希いつつ、まだ遠く及ばないことを恥じている。

【水彩画】徳広淳也氏(大阪府・中村高校第一期卒業生)

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[プロフィール]

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 昭和3年 東京日本橋区生まれ。
 「個性」会員。「素馨」発行人。
 東京女子医科大学卒。内科医師。
 現代歌人協会会員。
 歌集『春の樹立』『風とシンフォニー』『えおりあの琴古志』など多数。

 石川恭子氏の四万十川百人一首は、第11番目の歌集『朝鶯』(現代女流短歌全集40)に収められている。
■土佐中村を訪れる・・・

 石川恭子氏と四万十川のかかわりは、平成4年、中村市(現四万十市)の夏季大学の講師として、東京からはるばる、土佐中村を訪れた時です。

 秋まさに、四万十川短歌全国大会が出発した佳日で、発起人の小谷貞広氏、小橋延夫氏らの案内で、四万十川の支流・後川源流の集落まで出かけています。その時、小さな渓流で、はじめて河鹿の鳴く声を聞き、大滝貞一氏選の「四万十川秀歌百選」に取り上げられた「河鹿の声の・・・」の歌が生まれています。

 また、中村市国見の橋田東声の生家にも立ち寄り、北見志保子が通ったであろう小高い丘の上まで続く細い道を逍遥、同じ女流歌人としての思いを歌に託しています。
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  東声の旧居は古りて遠き日の志保子の一すぢの道乾きたり

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[ひとくちメモ]

■歌集『朝鶯』(現代女流短歌全集40)

 石川恭子氏の「四万十川の一首」は、蜩亭の小谷貞広氏のもとに届いたものです。

a0050405_7131136.jpg 『陽春の候、益々ご清祥の御事とおよろこび申し上げます。追年は大変お世話様にあずかりました。折々御地をなつかしく憶い出だして居ります。

 お電話にて、お元気なお御声をうれしく存じました。「うたかた」御刊行後、益々ご清配の御事と存じます。

 さて、先般、四万十の歌を、というご要請の御手紙を、いただき、取り込み中にて、御返信が遅れまして、失礼を深くおわび申し上げます。

 小作は別紙の通りで、小集「朝鶯」に収めてございます。追年、御地にての作でございます。何卒、四万十川百人一首を編纂されている方に、御宜しく、お伝えくださいませ。(石川恭子)』

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[代表歌鑑賞]        「現代短歌大事典」より

  鳴く蝉に十日のいのち人間に三万日のいのちいづれか長き (『蝉坂』)

■いのち

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 医師である作者には、「いのち」を詠んだ歌が多い。

 花や鳥や蝉の「いのち」を、人間のそれと同じ重さで、自己と一体化して歌う。

 「十日」「三万日」と数時を用いたところに、科学者らしい説得力があるが、根底にあるのは、青春時代の戦争体験から生まれた思想である。(坂出裕子)


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[四万十川秀歌百選/大滝貞一]
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  土佐の国さやけく鳴れる瀬の音に河鹿の声のひそとまぎれず

 土佐の国というとやはり清流の瀬音が最も強く印象される。その川瀬の音にまじって河鹿の鳴き声は紛れることなく静かに響いている。河鹿は渓流に棲む小さい痩せた蛙で、背面は暗灰色または白色で、側面はやや淡黄色を帯びる。雄は石の上などでヒヨロヒヨロヒヒヒヒと清涼な美しい声で鳴く。「蛍あまた音なく光息づけり川の真闇はいかなるその世」という歌も並んでいる。(大滝)

【写真】武吉孝夫氏

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【写真】秋晴(岡村龍昇:写真集「自賛他賛」より)
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  ふるさとは遠くなれども四万十の母のにほひの風我さそふ


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■四万十川の流れの一コマ・・・

 母の見舞いのため里帰りした際、四万十川百人一首の募集のことを知りました。「私はひそかに、これは何かの縁かな・・・」と考え、母娘で応募することにしました。

 四万十川のことは、子供の頃、亡父とよく話をしたりして、いつか連れて行って、と約束したこともあり、車窓から渡川(四万十川)を見るたびに、様々なことを思いめぐらしていました。

 一緒に応募した母は、回復することなく逝ってしまいましたが、母娘の四万十川百人一首は「四万十川の流れの一コマの歌と思い出」を残してくれたのだと思っております。

 細き手をにぎりかえして別れし日竹の若葉のざわめきを聞く

【写真】岡村龍昇氏

編纂人注:亀山利里子氏の短歌の好きな母親は、四万十川百人一首第57首の弘瀬幸子氏です。

・弘瀬幸子氏の四万十川百人一首

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[代表歌鑑賞] 

 櫓の音を残してすぎし船頭に父の姿を追ひし川風

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