第62首 後藤彦次 (兵庫県)

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    水引けばすぐに渡れる沈下橋四万十川に三十もある


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■知恵の結晶

 佐田の沈下橋に案内してもらった。柵も手摺もない橋。四万十川の増水を理解し、川の流れに逆らわぬ人達の知恵の結晶らしい。

 その沈下橋が四万十川には、まだ数多く、現役で残っている。

【写真】岡村龍昇氏

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[プロフィール]

 兵庫県明石市在住。
歌人、84歳(平成19年)。

 特攻で戦死した学友が二人いる。五十余年間すまぬと思いつつ生きてきた。この度脳死が死と認められたので、臓器を提供して世に尽したいと思う。「戦友よ俺は脳死で世に尽す」

 ご趣旨に賛同して、四万十川百人一首に応募します。

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[代表歌鑑賞]      「昭和46年歌会始」 お題「家」

■兵庫県 後藤彦次

 いちじくの熟れては落つる故郷の家をしのびていちじくを買ふ

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[文化遺産]

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■沈下橋

◆向山(上岡)沈下橋(大正町)<昭和38年・長さ60M・幅4M>
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 西土佐村の口屋内沈下橋と同型で、流域ではアーチ型の橋はこの2つしかない。大正町道の駅「であいの里」から少し上流にある。武内前町長自慢の沈下橋だ。いつも「先生、この橋は良かろうがよ」と、本当に入れ込んでいる様子がうかがえたものだ。そして、こんなどうでも良い私を「先生」と呼んで、四万十川と共にかわいがってくれた。確かにいい沈下橋だ。

◆屋内大橋(西土佐村)<昭和29年・長さ241M・幅3M50>
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 アーチ形の橋桁を持つ一番古い沈下橋だ。上流の浦越沈下橋と同じ29年架橋で、大正町の上岡沈下橋と同じ形式の橋だ。右岸側の支流を遡ると、黒尊渓谷へ行くことができる。

◆勝間(鵜の江)橋(四万十市)<昭和34年・長さ171M40・幅4M40>
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 幅は他の沈下橋よりずいぶん広く、そのため橋脚の数も多い。安心してクルマでも走れる。橋脚の間に見えるのが勝間川だ。この上流に「勝間の渡し」があったが、児童数の減少で休校となり渡しも無くなった。

◆今成(佐田)沈下橋(四万十市)<長さ293M・幅4M20>
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 右岸側からの写真だが、袂には柳の木と菜の花、下流側には竹が茂る。四万十川流域で一番長い橋だ。最近ここから「さこや」の屋形船が出るようになった。橋の下手の河原までは、四万十屋の帆掛け船「舟母」が平元からのぼってくる。

             (山川海幸雨「四万十川だより」より)

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[文化遺産]

■四万十川の帆掛け船「舟母」

e0190619_215394.jpg 明治時代末期から昭和30年代まで四万十川上流、特に西土佐村では木炭を関西・関東に供給する基地となっていました。

 そのため西土佐村では愛媛県からの出稼ぎ者で溢れており、村内には診療所 が6つに、小学校も10数校ありました。四万十川上流域は大変な賑わいをみせ、木炭を上流から河口まで運び、そして帰りには日用雑貨品を積んで上流域へと帰りました。

 その時代、舟母の先頭の給料は公務員の6倍程。2人1組の航行が一般的で若い者同士、親子の組の時もありましたが、多くが夫婦でした。若者達は中村町で遊んで帰るのが楽しみで、市内は多くの歓楽街で賑わい、舟母の船頭は人気の的でした。1日に100隻以上の帆をかけた舟母が上り下りをし、四万十川の歴史の中で一番光って元気な時代……。

 時は過ぎ、人々の暮らしも変わり今は自然だけが残り、悠久の時を感じさせながら、私たちの心を和ませてくれます。(「HP・四万十川観光開発株式会社」より)
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【写真】現代の舟母(観光船)
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