第19首 吉井 勇 (東京都)

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    山ふかく数里のあひだ人に会わず聴こゆるはただ風の音のみ


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■山間の静寂

 四万十川の源流に近い、重々たる山間は、人が入るのを拒むほどの深山幽谷が続きます。

 もう随分と流れに逆らって上って行くのだが、この数里の間に人には会わず、ただ、川風の音が聞こえてくるのみ・・・

 山間の静寂さの中に、黙々と四万十川源流を訪ねる歌人の姿があります。

 【写真】西内燦夫氏(四万十川新聞社)

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[プロフィール]

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【写真】新神賀橋から見た猪野々

明治19年10月東京生まれ。
明治38年、肋膜炎を病み歌作を始める。
        与謝野鉄幹・晶子の新詩社に参加。
明治41年、北原白秋、木下杢太郎らと新詩社を脱退し「パンの会」創立。
明治42年、石川啄木らと「スバル」創刊。戯曲にも手を染める。
明治43年、処女歌集『酒ほがひ』を上梓。

a0050405_5553319.jpg 歌集『酒ほがひ』の「ほがひ」は、「寿ぐ」意で、『酒を寿ぐ』ということから、さしずめ、酒をこよなく愛した吉井勇らしく「酒礼讃」というところであろうが、「ほがひびと」といえば乞食のこと、だから「酒乞食」ともなるが、これは吉井勇独特の洒落。

 初めて土佐を訪れたのは昭和6年。この時、生涯の酒友、伊野部恒吉(「瀧嵐」の醸造主で、勇は伊野部恒吉を「酒麻呂」と呼んでいた。)と知己になり、後に香北町猪野々に草庵をつくり「渓鬼荘」と名づけ、土佐隠棲の志をもつ契機となりました。

 昭和8年様々な事情から、爵位を返上、離婚を決意し、翌年失意のうちに東京を離れ土佐に入る。それから4年間、土佐の地にいて「酒と短歌」の生活に明け暮れました。

 土佐では、東は室戸岬、西は足摺岬、沖ノ島まで行雲流水の旅、歌行脚、酒行脚に出かけて、その地の地酒、どぶろくを堪能、数多くの「ご当地歌」を創作しています。

 吉井勇の「四万十川百人一首」は、昭和32年5月に、高知から伊予の松山に行く途中、四万十川源流のひとつ、梼原町四万川を訪れた時の歌です。

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[ひとくちメモ]

■四万十川源流と「龍馬脱藩の道」

 吉井勇が訪れたのは、現在、源流とされている「不入山」ではなく、もうひとつの源流、梼原町の「四万川」です。

 四万十川の源流は、現在源流点とされている「中村川」(津野町船戸)、裏源流といわれている「北川川」(津野町郷)、それに四万十川の由来を意味する「四万川」(梼原町四万川)が、長らく「源流点争い」をしましたが、川の延長、ダムの有無が決め手となり、今の源流点が決まったとされています。

 ちなみに、梼原町四万川の源流付近には「龍馬脱藩の道」があります。文久2年3月24日、28歳の龍馬が四万十川の源流から伊予へ抜け、世界へとはばたいていきました。

 さらに、坂本龍馬と四万十川との関わりでは、嘉永3年、16歳の若き龍馬が、四万十川の河川改修工事で幡多の中村に来ています。そのとき、後の龍馬の行動を決定づけた「人・物・資金」を動かすこと(「働く」ということ)を学んだと云われています。

竜馬が四万十川にゆく (バーチャル[四万十川博物館])

a0050405_5561699.jpg そいういうことから、四万十川は『龍馬飛騰』の地として、今でも多くの龍馬フアンが訪れています。

 また、吉井勇が熱烈な「龍馬ファン」のことは、よく知られているところ。
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 何故、吉井勇は、人影もない深山幽谷が続く、四万十川の源流まで旅したのでしょうか?

 このことについては、文献にも見当たりませんが、おそらく梼原町四万川の中越家、中平家など地元の名士の家に招かれたものと思われます。しかし、なぜに、四万十川源流なのか?・・・、と云うと、ここに「龍馬脱藩の道」があることを知っていたからかもしれません。

 山にある山のいのちを感じつつ身も引きしまり幾山超え来
 梼原に車を停めて食うべたる弁当の昆布うまかりしかな

 吉井勇の祖父は吉井幸輔(友実)、鹿児島出身で、西郷隆盛と親しかったと云います。坂本龍馬と西郷隆盛を引き合わせたのは吉井幸輔と云われています。

a0050405_5512544.jpg また、池田屋事件のあと、龍馬は「お竜」を連れて、日本で最初の新婚旅行に鹿児島の霧島へ行ったエピソードは有名ですが、そのときに鹿児島で何かと面倒を見たのが吉井幸輔です。
【写真】龍馬新婚旅行の碑

 そのような事から、吉井勇は坂本龍馬のことを、幼少の時から祖父に聞かされ、尊敬とともに親近感を持っていた、と思われます。東京で身も心も疲れ果てたとき、縁もゆかりもない土佐へ居寓する心境になったのは、「土佐は坂本龍馬のふるさと・・・」という事があったのかもしれません。

 吉井勇が、「なぜ?四万十川源流への旅を・・・」の謎解きも、そのあたりにヒントがあるような気がします。吉井勇の歌碑は、高知県に9基(他に猪野々に15基)ありますが、四万十川源流の梼原にはありません。

 吉井勇は、坂本龍馬の歌を沢山詠んでいます。そのひとつ。

 新しき龍馬出でよと叫ぶごと一万の紙おのづから鳴る

(「一万の紙・・・」とは、高知新聞1万号の発行記念を祝しての祝歌です。)

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【写真】吉井勇記念館 (香北町猪野々)

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[歌碑]

■吉井 勇歌碑(高知県内)

a0050405_15472156.jpg〔猪野沢温泉(香北町猪々野)〕

  寂しければ御在所山の山桜
     咲く日もいとゝ待たれぬるかな

〔最御崎寺(室戸市室戸岬)〕

  空海をたのみまゐらすこころもて
     はるばる土佐の國へ来にけり

〔龍河洞(土佐山田町逆川)〕

  絶え間なく石したたりてあるほどに
     百千劫はいつか経にけむ

〔筆山(高知市)〕

  つるぎたち土佐に来たりぬふるさとを
     はじめてここに見たるここちに

〔伊野部昌一氏邸(高知市)〕

  友いまだ生きてかあらむここちして
     土佐路恋しく吾は来にけり

〔桂浜(高知市)〕

  大土佐の海を見むとてうつらうつら
     桂の濱にわれは来にけり

〔沖の島(宿毛市母島港)〕

  沖の島なつかしければあら海も
     ものかはと越す旅人われは

a0050405_1931641.jpg〔叶崎(土佐清水市足摺岬大津)〕

  土佐ぶみにまづしるすらくこの日われ
     うれしきかもよ叶崎見つ

      (小谷貞広氏と大滝貞一氏)

〔伊野部純吉氏邸(高知市)〕

  瀧嵐そっと入り来たりものをいふ
     しの門口のうつ木おもほゆ

 なお、傷心で土佐にやってきた吉井勇が「猪野々に住むことによって人間修行ができました。里人の人情で立ち直ることができました」と後に著書(「渓鬼荘雑記」)に記しているように、吉井勇が愛してやまなかった猪野々地区の人々により、平成6年から15年にかけて、勇が歩いたであろう猪野々小学校や郵便局、明法寺などの道沿いに、歌碑が15基立てられています。そのうちの、ひとつ。

〔猪野々小学校(香北町奈路下)〕
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  韮生路の秋深くしてさむさむと
     山風そふく河風そふく
 
(この歌は、吉井勇が親しくしていた当時猪野々小学校の校長先生に贈ったものと云われています。その色紙は長い間、同小学校に保存されていましたが、現在は廃校になり、立派な校舎【写真】も壊され、その所在は不明です。)

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[代表歌鑑賞]    (「現代短歌大事典」より)

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 空海をたのみまゐらす心もてはるばる土佐の国に来にけり

 歌集「人間経」の一首。人生の危機を凝視した歌集「人間経」は、勇の代表歌集である。33年、伊予、土佐へ旅し、35年には土佐の山峡猪野々に草庵を結んで「渓鬼荘」と名づけ、37年まで滞留した。讃岐の国は弘法大師空海の生まれた国である。表題歌の歌柄の伸びやかさは、「空海をたのみまゐらす心」によって生まれてきたものである。

【写真】「渓鬼荘」(香北町猪野々)
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